ドキュメンタリーを見て

昨日、自分の気持ちを文章にして両親に見せた。口に出して自分の思いを伝えるのがとても苦手なため、この方法がいちばん落ち着くのだ。

一人でベッドの中で悶々と考え、口を利かずにいると、一気に精神は下へ下へと向かう。下とは何処か?それは死だ。どうやったら死ねるか、どんな方法が良いのか。出てくるのはそんな考えと涙ばかりだ。

情けない、無様な自分を責める。お前は甘えている。お前はもっと頑張るべきだ。その言葉を聞いて、立ち上がろうとする。けれど「自分にはなにもできない」という思いが立ち上がろうとすると、胸いっぱいに広がり、また泣きながら座りこんでしまう。それを繰り返していた。

今日はすこし落ち着いて、ご飯も普通に食べ、外に出た。珍しい梅雨の晴れ間。日差しは如実に夏を指し示そうとしている。

いつものカフェに入り、キャラメルラテを飲む。そこでしばしぼうっとし、昨日のことを思い出した。昨日、やはり泣きながら母親と姉と、少し言葉を交わした。何度も「産まれてこなければよかった」と言いたくなった。けれど言わなかった、というより、言えなかった。今は言わなくて良かったと思っている。産まれなければこんな苦労はせずに済んだ。でも、だからどうしたんだ。お前は現にこうして生きているではないか。どうしようもないことだよ、それは。だからわたしはここで生きる術を見つけなければいけない。

わたしはとても弱い人間なのかもしれない。些細な言葉に、いたく傷ついてしまう人間なのかもしれない。生きにくく、弱い。だけど産まれてしまったのだ。こうして呼吸をして、生きているのだ。なら、生きてみようか。

母親が連絡を取ってくれた場所に行ってみたいと思った。懐かしい場所。そこは本当は子供を対象にするところなのだけれど、特別に話を聞いてくれるとのことだった。とてもとても懐かしい場所だ。どんな人が待っているのかは分からない。けれど、行ってみたいと思った。

生きようとする理由が、またひとつ見つけられた。それはきっと、とても喜ばしいこと。

ドキュメンタリーを見て

そうそう、本題に入るのを忘れるところだった。あるドキュメンタリーを見たのだ。現行制度からこぼれ落ちてしまった人たちを救おうとする女性のドキュメンタリーだった。それを見ながら、「孤立する」ということは、いとも容易く、まるで一本道のように「死」に繋がっているのだなと思った。

そのドキュメンタリーに、20代半ばの男性が自殺した、と、一瞬だけ出てきた。その内容自体はさらりと流されてしまったが、女の人は悔しそうに「来世でね、幸せになりたいって言ってたんですよ」と言った。「今世で幸せにしてあげられなくてごめんね」と、泣いていた。

一人きりで孤立して、来世は幸せになりたいなと笑って、そして死んでいく人が実際に居るということを、知った。ただそれだけ。それだけの事実。

だけど無性に、やるせない。