容姿/見た目/美醜についてとりとめもなく思うこと

さっき、この動画を見ていて、素直に「すごいなあ」と感じた。

 

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何に対して「すごいなあ」と思ったのかというと、化粧前の素顔を見も知らぬ大衆(しかも匿名)に対して見せられることと、化粧のテクニック、そして化粧後の綺麗な顔。

もちろん、きっとここまで辿り着くには並々ならぬ努力が必要だったのだろう。だってつけまつげをこんなに手早く付けられるんだぜ……? 熟練の兵士ですよ。そして、細かいテクニックの数々。やり過ぎない化粧ができるということ、それだけでもこの方は相当努力されたのだなと勝手に思って、勝手に感心している。動画では軽妙なトークでそんなことを微塵も感じさせてくれないところがまたツボ。

「容姿」とは、「骨の外」にしか過ぎなくて、だからこそ厄介

骨の形は一般的に違いはないとされるのに、どうして骨の上に乗っかる肉はこんなにも千差万別なのだろう? わたしは生物学的なことには疎いため、理由は分からない。これも多様性の一部なのかもしれない。しかし、この「肉」によって、「美醜」が決まる。これもまた事実。

みんな、世界は平等だと謳うのに、容姿に関してはそうでもない気がする。でも、もしかしたらそれは本人に悪気があってのことではなく、無意識に差別してしまうのかもしれない。ならばその無意識はどこから来るのか? 本能だろうか。本能を意識が押さえつけるのは至極厄介だ。

だけれど、もしも、「容姿」への差別が無意識に近いところで何かから植え付けられたものだとしたら?

雑誌の中はきらびやかで美しくて麗しい、汚れのない世界

誰もが一度は雑誌を手に取るだろう。そこには美しい人、物が溢れかえっている。そして、「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」と高らかに謳う。そのあまりの堂々っぷりに、最初、わたしたちはただうなずくことしか出来ない。

世界とはこうあるべきなのだ。美しくなければならない。高いブランドを持たなければならない。雑誌の一ページ一ページに、そんな信念が染み付いているようだ。

わたしも中高生のころは、雑誌の世界を鵜呑みにしていた。一重で垢抜けないわたしは、ひたすら容姿コンプを募らせていた。実際に容姿で馬鹿にもされたし。とにかく自信がなかった。だってわたしは雑誌の中の世界のようにはできない、なれない。ダメダメだ、と思っていた。

だが、いつの間にか月日が経ち、いろいろな意見をそこかしこで目にしたわたしはある日、「ああ、雑誌とは商品を売るための媒体にしか過ぎないのだ」と、ようやく気がついた。人よりもすこし遅い気づきだっただろう。けれどそう気づけたことで、本当にぽん、と、胸の中につかえていたものが取れた気がした。

けれど容姿はついて回る

今はどうだ、と言われると、まあ今も自分の容姿をそこまで嫌いではないけれどもそこまで好きでもないです、と答えるしかない。事実だし。一重は相変わらず。世間はくっきりぱっちりお目目こそ最上と謳う。わたしもくっきりぱっちり二重になりたいなあと指をくわえている一人だ。

でも、昔ほど自分の容姿に絶望もしていない。なぜなら改善(化粧)ができると知ったから。上記のアキラさんのように上手ではないけれど、昔よりは上達したと個人的には思っている。

もちろん、素のままの自分の容姿が美しければ、それに越したことはない。だが、テレビや雑誌があたかも「大衆は皆、美しい」と朗々と歌い上げるのに対し、世間は必ずしもそうではない、とわたしは知っている。世の中にはさまざまな顔の人がいる。その中にわたしも含まれている。

相変わらず世間やメディアはたくさんの美しい人を世に送り出す。美しくなければ人にあらずんば、とでも言いたげな記事やツイートだって見かける。

でもだからって、自分に絶望するのは足掻いた後だっていいと思う。めちゃくちゃ足掻いて、もうこれ以上は無理だ! というぐらい足掻いたら、見える景色も変わるかもしれない。希望的観測だけれど、希望がある、ということはとても大切なことだから。

嫌でも自分について回るもの。「容姿」「肉体」。それらをどうすべきか、どう考えるべきか。

わたしはアキラさんのお化粧の動画で、小さなその答えを見つけられた気がする。

足掻くこと。徹底的に足掻くことだ。

絶望するのはそれからでも遅くない。……そんな風に思った。