ああ、と思った

 

 とあるブログを読んで、「分かるわ~」と思った。下記がその文である。

 

結婚はまだいいよ。分かるよ。配偶者以外とは関係を持たないっていう法的な契約関係じゃん。でも"付き合う"って何? タダでセックスできる相手を確保できるっていう以外に何があるの? 道端で手を繋いで歩いてるカップルを見るとどうしても『ああこいつら、このあと滅茶苦茶セックスするんだろうな』って考える。無印良品のカタログに出て来そうな無味無臭のカップルでさえ帰ったら滅茶苦茶セックスするんだと思うとグロくてグロくて仕方なくて。でも私ね、結局、ドリーム小説に育ててもらったから、良いドリーム小説を書いて、ドリーム小説に恩返しがしたいっていう気持ちだけなの。決してこの身で体験することができないボーイズラブと違って、男女の恋愛を描くドリーム小説でモノを言うのは良質な実体験に基づくリアリティのみなわけ。だから私はリアリティを追求するために男と付き合う、ドリーム小説に活かすために男と付き合う、監督のトロフィーも舐める、そして上質な、愛のある、良いドリーム小説を書く。だって現実には利己心に基づいたメリットのない駆け引きしかできないから。つまり腐ってんだよ人と付き合うってのはよお!!!」

女友達の新しい彼氏との馴れ初めを聞きに行ったら死ぬほど文学だったから文学書きました - on my own

 

 結婚とは契約だ。相手以外とは関係を持たない、清廉潔白でいようね、お互いにね、と、純白のドレスを着て微笑む儀式だ。まあ昨今はそうでもないようですけどね。わたしが勤めていた場所には、結婚をしている人が大勢来た。そういう人たちが契約をしていない人と過ちを犯し、それを清算する場でもあった(もちろんそうでない場合もたくさんあったのだが)。だからわたしは不倫とか若年層の妊娠とか、そういうことに対してなんだかとても複雑な気持ちを抱いている。

もちろん契約は契約なんだから、不履行にすればそれば契約違反だ。それはいけない。だってこの人以外を愛さないと決めたのだから。結婚とはただ一人のみを愛する、そういうものだとわたしは思っている。でも現実は違う。現実は複雑だ。

わたしはあの人たちの本当の事情や経緯を知らない。へらへらと笑いながら彼氏と待合室に座っていたあの人が、本当は心の中では泣いていたのかもしれない。結婚している、と、話したのに、紙に書いた名前は違うものだったりした。

結婚とは。性欲とは。なんぞや。

わたしは最初、そういう人たちを軽蔑していた。でも今はやはり複雑な気分でいる。正しいことを言うのは簡単だし、正論だから殴られた方は反論はできない。でもわたしはあなたじゃないし、あなたの心は分からない。どういった経緯があって、そうしたことになったのか、分からない。働いているころは嫌で仕方がなかった。「またか」と呆れた。優しい気持ち、思いやる気持ちは持てなかった。

それでよかったんだろうか。「悪いこと」と決めつけて蓋をして閉ざすことは、本当にいいのか?

あなたは彼女の事情を知っている? 彼女が何を考えていたか、知っている?

あなたの投げつける正論は、あなたに返ることはない? あなたは「善良な人?」

そういえば、最近有名になっているこんな漫画があるね。

kc.kodansha.co.jp

 

「自分に何も罪がない者だけ石を投げていい」

そう言われた人々は石を投げるのを止めた。誰しもなんらかの事情を抱えている。それを忘れて石を投げるのはさぞや気持ち良いだろう。わたしもかつてはその一人だったのだな、と、思う。

石を握っていた手は、今度は誰かの肩に手を置けるような、そんな手になれればいいな。

素直だから更新するよ!

文章を褒められたので、まんまとブログを更新する。褒められたら素直に「嬉しい」と言う。最近はそうするようにしている。謙遜して「いやいやそんな……」と、言う時もあるけれど(対応に迷う場合)。たいていの時は「ありがとうございます」と、返すようにしている。

人によっては「なんだコイツ、お世辞を真に受けてるよ」とか思っていたりもするのでしょうが、そこはそれ、これはこれ。他人の考えは他人のもの。わたしの考えはわたしのもの。わたしはお世辞でも嬉しいから「嬉しい」と言います。

わたしは人を褒めるだろうか、と、ふと考えた。「すごいね」「かっこいい/かわいい」「さすが」とはよく言っている気がする。そしてそのどれもが別にお世辞とかではなく、ほとんどはぽろっと口をついて出てくる類のものだ。純粋な、自分の気持ち。それを言った時、相手にどう反応されたら嬉しいだろうかと考えたら、「いやいやそんな」よりも、「でしょー!」と、冗談みたいに笑ってうなずいてくれる方が嬉しい気がする。

「心にもない言葉は言えない」と、どこかで見かけた。だが、わたしはすごく嫌な人に、お世辞を言った記憶がある。ならばそれも心にあった言葉なのだろうか。答えはYesでもあり、Noでもあるのかもしれない。きっとその人のある部分について、本当に羨ましかったし、純粋に尊敬もしていた。それを言葉にした。だから、あの言葉はわたしの本心だったのだろう。でも、なんだか違和感は残った。この違和感の正体は何か。

それはおそらく、言って自分が嬉しい気持ち/楽しい気持ちになるか否か、なのではないだろうか。そう考えると、やっぱり言って自分が嬉しい/楽しい気持ちになる褒め言葉こそが、自分の本心なのかもしれないね。

容姿/見た目/美醜についてとりとめもなく思うこと

さっき、この動画を見ていて、素直に「すごいなあ」と感じた。

 

youtu.be

 

何に対して「すごいなあ」と思ったのかというと、化粧前の素顔を見も知らぬ大衆(しかも匿名)に対して見せられることと、化粧のテクニック、そして化粧後の綺麗な顔。

もちろん、きっとここまで辿り着くには並々ならぬ努力が必要だったのだろう。だってつけまつげをこんなに手早く付けられるんだぜ……? 熟練の兵士ですよ。そして、細かいテクニックの数々。やり過ぎない化粧ができるということ、それだけでもこの方は相当努力されたのだなと勝手に思って、勝手に感心している。動画では軽妙なトークでそんなことを微塵も感じさせてくれないところがまたツボ。

「容姿」とは、「骨の外」にしか過ぎなくて、だからこそ厄介

骨の形は一般的に違いはないとされるのに、どうして骨の上に乗っかる肉はこんなにも千差万別なのだろう? わたしは生物学的なことには疎いため、理由は分からない。これも多様性の一部なのかもしれない。しかし、この「肉」によって、「美醜」が決まる。これもまた事実。

みんな、世界は平等だと謳うのに、容姿に関してはそうでもない気がする。でも、もしかしたらそれは本人に悪気があってのことではなく、無意識に差別してしまうのかもしれない。ならばその無意識はどこから来るのか? 本能だろうか。本能を意識が押さえつけるのは至極厄介だ。

だけれど、もしも、「容姿」への差別が無意識に近いところで何かから植え付けられたものだとしたら?

雑誌の中はきらびやかで美しくて麗しい、汚れのない世界

誰もが一度は雑誌を手に取るだろう。そこには美しい人、物が溢れかえっている。そして、「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」と高らかに謳う。そのあまりの堂々っぷりに、最初、わたしたちはただうなずくことしか出来ない。

世界とはこうあるべきなのだ。美しくなければならない。高いブランドを持たなければならない。雑誌の一ページ一ページに、そんな信念が染み付いているようだ。

わたしも中高生のころは、雑誌の世界を鵜呑みにしていた。一重で垢抜けないわたしは、ひたすら容姿コンプを募らせていた。実際に容姿で馬鹿にもされたし。とにかく自信がなかった。だってわたしは雑誌の中の世界のようにはできない、なれない。ダメダメだ、と思っていた。

だが、いつの間にか月日が経ち、いろいろな意見をそこかしこで目にしたわたしはある日、「ああ、雑誌とは商品を売るための媒体にしか過ぎないのだ」と、ようやく気がついた。人よりもすこし遅い気づきだっただろう。けれどそう気づけたことで、本当にぽん、と、胸の中につかえていたものが取れた気がした。

けれど容姿はついて回る

今はどうだ、と言われると、まあ今も自分の容姿をそこまで嫌いではないけれどもそこまで好きでもないです、と答えるしかない。事実だし。一重は相変わらず。世間はくっきりぱっちりお目目こそ最上と謳う。わたしもくっきりぱっちり二重になりたいなあと指をくわえている一人だ。

でも、昔ほど自分の容姿に絶望もしていない。なぜなら改善(化粧)ができると知ったから。上記のアキラさんのように上手ではないけれど、昔よりは上達したと個人的には思っている。

もちろん、素のままの自分の容姿が美しければ、それに越したことはない。だが、テレビや雑誌があたかも「大衆は皆、美しい」と朗々と歌い上げるのに対し、世間は必ずしもそうではない、とわたしは知っている。世の中にはさまざまな顔の人がいる。その中にわたしも含まれている。

相変わらず世間やメディアはたくさんの美しい人を世に送り出す。美しくなければ人にあらずんば、とでも言いたげな記事やツイートだって見かける。

でもだからって、自分に絶望するのは足掻いた後だっていいと思う。めちゃくちゃ足掻いて、もうこれ以上は無理だ! というぐらい足掻いたら、見える景色も変わるかもしれない。希望的観測だけれど、希望がある、ということはとても大切なことだから。

嫌でも自分について回るもの。「容姿」「肉体」。それらをどうすべきか、どう考えるべきか。

わたしはアキラさんのお化粧の動画で、小さなその答えを見つけられた気がする。

足掻くこと。徹底的に足掻くことだ。

絶望するのはそれからでも遅くない。……そんな風に思った。

ドキュメンタリーを見て

昨日、自分の気持ちを文章にして両親に見せた。口に出して自分の思いを伝えるのがとても苦手なため、この方法がいちばん落ち着くのだ。

一人でベッドの中で悶々と考え、口を利かずにいると、一気に精神は下へ下へと向かう。下とは何処か?それは死だ。どうやったら死ねるか、どんな方法が良いのか。出てくるのはそんな考えと涙ばかりだ。

情けない、無様な自分を責める。お前は甘えている。お前はもっと頑張るべきだ。その言葉を聞いて、立ち上がろうとする。けれど「自分にはなにもできない」という思いが立ち上がろうとすると、胸いっぱいに広がり、また泣きながら座りこんでしまう。それを繰り返していた。

今日はすこし落ち着いて、ご飯も普通に食べ、外に出た。珍しい梅雨の晴れ間。日差しは如実に夏を指し示そうとしている。

いつものカフェに入り、キャラメルラテを飲む。そこでしばしぼうっとし、昨日のことを思い出した。昨日、やはり泣きながら母親と姉と、少し言葉を交わした。何度も「産まれてこなければよかった」と言いたくなった。けれど言わなかった、というより、言えなかった。今は言わなくて良かったと思っている。産まれなければこんな苦労はせずに済んだ。でも、だからどうしたんだ。お前は現にこうして生きているではないか。どうしようもないことだよ、それは。だからわたしはここで生きる術を見つけなければいけない。

わたしはとても弱い人間なのかもしれない。些細な言葉に、いたく傷ついてしまう人間なのかもしれない。生きにくく、弱い。だけど産まれてしまったのだ。こうして呼吸をして、生きているのだ。なら、生きてみようか。

母親が連絡を取ってくれた場所に行ってみたいと思った。懐かしい場所。そこは本当は子供を対象にするところなのだけれど、特別に話を聞いてくれるとのことだった。とてもとても懐かしい場所だ。どんな人が待っているのかは分からない。けれど、行ってみたいと思った。

生きようとする理由が、またひとつ見つけられた。それはきっと、とても喜ばしいこと。

ドキュメンタリーを見て

そうそう、本題に入るのを忘れるところだった。あるドキュメンタリーを見たのだ。現行制度からこぼれ落ちてしまった人たちを救おうとする女性のドキュメンタリーだった。それを見ながら、「孤立する」ということは、いとも容易く、まるで一本道のように「死」に繋がっているのだなと思った。

そのドキュメンタリーに、20代半ばの男性が自殺した、と、一瞬だけ出てきた。その内容自体はさらりと流されてしまったが、女の人は悔しそうに「来世でね、幸せになりたいって言ってたんですよ」と言った。「今世で幸せにしてあげられなくてごめんね」と、泣いていた。

一人きりで孤立して、来世は幸せになりたいなと笑って、そして死んでいく人が実際に居るということを、知った。ただそれだけ。それだけの事実。

だけど無性に、やるせない。

愛情を返せれば

一番申し訳ないと思っているのは両親に対してです。大学に行かせてまでこんな生き方しかできない娘を持って、どんな気持ちでいるのだろうと思います。

「死んでしまいたい」と言った時、両親は驚き、「そんなことはダメだよ」と言ってくれました。けれど働いてもろくに続けられないわたしはその言葉がよく分かりませんでした。奨学金をすべて返済したら死のう。働いている時、そう決めたことを両親に話しました。こんな娘でごめんなさい、と。

死んではいけないとたくさんの人が言ってくれます。けれどわたしは自分自身に生きている価値が見出せません。死んだほうがきっと良いのだと、正直今でもそう思っています。

にこにこ笑っているのに、心の奥底ではいつの間にか住み着いたもう一人の自分が死ねと盛んに責め立てているのを、どこか平静に見ている自分が居ます。

死にたいとはもう両親に言ってしまったため、もう言うことは憚られます。だからこうして、誰が見ているとも知れないブログに自分の思いを書いています。

たくさんの愛情をくれたのに、何ひとつ返せない娘でごめんなさい。泣いてばかりでごめんなさい。

小さな夢があったのです。自分のお金であるレストランに両親を連れて行ってあげようと。そんな些細な夢すら叶えられない娘で本当にごめんなさい。

両親も姉も支えられる人間になりたかった。なのに現実は酷く、馬鹿みたいな自分が居るだけ。

本当に馬鹿だと思います。

ただそれだけ。謝罪しかできない自分を愛してくれるのはなぜでしょうか。ただ重荷になるだけの存在なのに。家族だからでしょうか。娘だからでしょうか。血が繋がっているからでしょうか。

わたしは、わたしが居なくなっても構わないと思っています。むしろその方が良いと思っています。

悲しくて泣いてばかりいるわたしが望んだ、希望を持ったものは自分から手放したのです。誰を責められましょう。責めるべきは自分です。

いつか泣き止めるでしょうか。

産まれなければよかった、の一言は軽いですか?

わたしは今、自分に対し、すごくそう思います。発達障害という診断も下せない、じゃあ普通かといえばそういうわけでもなさそうな、いわゆるボーダーとしてわたしはいる。

「普通に産まれたかった」

という言葉が、胸の中いっぱいに広がってどうしようもないです。発達障害は甘えという意見が世の中にあることを知っています。そしてわたしはその発達障害でもない、ただの出来損ないだということも知っています。

普通に働こうとしました。普通にコミュニケーションを取ろうとしました。普通に仕事をこなそうとしました。でもすべてダメだと言われ、嗤われました。悪意はとても強く伝わります。でも普通の人はこんなことなんでもない、だから頑張ろうと仕事に行こうとしました。

だけどどうしても行きたくなくて、一人で夜の公園のベンチに座りました。ここに居たからってどうなるわけなんてないのに。誰かが救ってくれるわけでもないのに。

ええ、わたしの努力不足なのでしょう。忍耐不足なのでしょう。もっと普通の人なら上手にやれたのでしょう。

でも、わたしなりに頑張ったつもりだったのです。苦手な面接もなんとか通り抜け、手術後の母親に伝えられたことは心底嬉しかった。頑張って続けようと思った。新しい保険証が来たとき、父親から「また何かあった時のために」と、もう一枚の保険証を手渡されました。これを使わない未来がきっとあるし、また、そうであるようにしよう、と思いました。

新しい職場には自転車で30分かけて通いました。頑張ってるね、と笑われる距離を雨の日も漕いでいきました。

コミュニケーションも仕事もうまくいかないと分かってきたとき、本をたくさん買いました。実践しようとしましたが、そう上手くいくはずもありません。わたしはやはり嫌われたままでした。いや、馬鹿にされていたのかな。どちらも同じか。

「辞めてよかった」と言われ、わたしはうなずきました。しかし日が経つにつれ、何をしていても涙が出るようになりました。

わたしは何なのだろう。わたしは普通のはずなのに、なんで何をしてもうまくいかないんだろう。

職場が悪かった、と言ってくれる人がいます。そうかもしれません。でも、普通の人なら頑張れたかもしれません。

普通に産まれたかったのです。「普通にしか見えないよ」とたくさん言われます。じゃあなんでこんなにわたしは変なのだろう。その言葉は呪いのようでした。

「もう普通は嫌だ」と両親に言いました。じゃあどうするのか。手帳をもらい、就職するのがベストなのか。

普通なのに普通にできないわたしはわたしを殺してしまいたい。産まれてこなければよかった。それが短くまとめたわたしの言葉です。

「もっと辛い思いをしている人もいるんだぞ!」と、わたしの頭の中の誰かが責め立てます。だからわたしはまた立ち上がって働きます。

普通になりたい、死んでしまいたい、とつぶやきながら。

選択肢ならたくさんあったし選んできたよ

人生は選択肢の連続だ、と、なにかの言葉で聞いた。その通りだと思う。たとえば朝なにを食べるかからはじまり、この人生をどうするかにいたるまで。主に仕事に関してわたしは結構たくさんの選択をしてきた。履歴書にはずらずらと謎の経歴がならぶ。どれも短い。この短さがわたしの弱さをあらわしているのだろうか、と、見るたびに悲しく自己PRを打ち込む。

最初はちょっと高級なレストランで、ホールのアルバイトをした。今のわたしの歳とそう変わらない店長はやさしかったけどすごく冷たくもあった。なにせわたしは大学を卒業するまでなんのアルバイトもしたことがなく(正確にはあったけど1日でクビになった)、そういう社会常識にはとんとうとい20そこいらの小娘だったのだから。んー、でも今思い返してもそこのレストランのお局は最強で最凶だった。だって縦ロールだもん髪の毛。縦ロールだよ。お蝶夫人かよ。敵わねぇよ。お局ともう一人の女の子はわたしの世間知らずっぷりと挙動不審っぷりが大嫌いだったらしく、つらくなって辞めた。今でも真夏の暑い日、「今日で辞めさせてください」と言った世間知らずの小娘を店長は叱りもせずゆるしてくれた。そしてわたしは百貨店を背にし、そこの最上階に聳える縦ロールをもう見なくてすむことにほっと安堵した。きっとこれがはじまり。

いろいろアルバイトしたな。でもどれも1年未満。長くは続かない。多分わがままなんだろうな、とは自分でも思う。お客さんが嫌になって、人間関係が嫌になって。なんで長く続けないの、なんで我慢しないの、と、昔の自分に言いたいけど言ったらどんな結果になるんだろう。結果(つまり未来は誰にもわからない)は良いものであったろうか。神さまが望遠鏡みたいに見せてくれたらいいのに。

先月も仕事を辞めた。ずいぶん悩んだけどまた辞めた。辞めなければ良かったのかもしれない、と思う自分もまだ居る。でも辞めてずいぶん楽になった自分も居る。相反するものが自分のなかにあるということは案外めっちゃつらい。

その職場でも挙動不審なわたしを嫌いなお局がまた現れ、わたしはまた負けた。すこしだけ戦ったけどそれは戦ったことになるのかな。心底楽しそうにわたしの慌てるさまを見ていたあの人に耐えることが勝つ条件だったのだろうか。難しい条件だな。ベリーハードだ。みんななら戦えて耐えて勝つことができるのだろうか、と、いつも考える。だとしたらやっぱりわたしは弱いしダメなやつだ。

わたしはダメなやつなんです、と、言ったら「そんなことないよ、ダメじゃないよ」と言ってくれる言葉を信じる方法をだれか教えてほしい。

「わたしはわたしの物語を閉じてはいけない?」

奥歯さんは自分で物語を閉じた。わたしの物語はどこで閉じるべきなんだろう。だからまだしおりを物語にはさむ。